貴族!(その2)

(続き)
ルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台の露と消えた後、フランス革命は革命各派による潰しあいの末、最後に権力を掌握したのはナポレオン・ボナパルトである。ナポレオンは仏領コルシカ島の貴族の家の出とされているけど、差別的な表現をすればコルシカ島は「フランスなのかイタリアなのかどっちなんだ」という地理的環境にあり、彼がフランス本国の士官学校に入った時も同級生(名門貴族のお坊ちゃん達)から「ブオナパルテ」と、わざとイタリア風な発音で呼ばれてバカにされていた、というエピソードを子供の頃ポプラ社刊の児童向けの伝記で読んだ記憶がある。そういや「ナポレオン」って名前もなんか「ナポリ」っぽくてイタリアの香りがするよなあ。別にイタリアよりフランスのほうが優れているという風には思わないけど。
ヨーロッパ諸国の階層的特徴として将校・将官といった高級軍人は貴族階級の人間が独占するというのがこの時代までの常識だったわけだが、成り上がり者のナポレオンは、下級士官クラスからでも優秀な人材をどしどし将軍に抜擢するという能力主義を用いる。この時代から2百年以上前に日本では織田信長が、羽柴秀吉明智光秀滝川一益といった当初は無名だった連中を、現代の用語でいうところの「方面軍司令官」にまで抜擢するという人事と酷似しているのは、ある種の軍事的天才像を考える上で非常に興味深い。
少し話が逸れたが、フランス革命およびナポレオン帝政時代のフランスでは王族をはじめ貴族階級の者は大半が国外追放の憂き目に遭っていた。この間、実はナポレオンは新しい貴族階級を創設していた。ありていに言えば自分が抜擢した(ほとんどが平民階級出身の)将軍達や、自分の兄弟姉妹親類縁者に対して新たに征服した領土を分け与えるという行為である。(例:兄ジョゼフは「スペイン王」弟ルイは「オランダ王」、部下のダヴー元帥が「アウエルシュタット公」等々)しかし1814年に対仏同盟国軍によりパリが占領されナポレオンがエルバ島に流されると、時代は一気に1789年のフランス革命以前に逆戻りする。
1814年、ナポレオン没落後のヨーロッパをどうするかという会議が、戦勝国であるイギリス、ロシア、オーストリアプロイセンと、敗戦国のフランスの5大国を中心としてウィーンで開催された。これって今で言う先進国首脳会議の元祖なのだろうか?
先進国首脳会議といってもこの時代のこと。メンバーはヨーロッパの最上流階級の面々で占められている。

イギリス

カスルレー子爵(外相)、ウェリントン

ロシア

皇帝アレクサンドル1世、ネッセルローデ伯(外相)

オーストリア

皇帝フランツ1世、メッテルニヒ候(外相)

プロイセン

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ハルデンベルク公(外相)

フランス

タレイラン=ペリゴール公(外相)
中公文庫「世界の歴史」の、確か「ブルジョアの世紀」という巻にウィーン会議の絵が載っていて、まあ豪華絢爛というか、会議場というより貴族のサロンって感じのご様子で、多分シェーンブルン宮殿のナントカの間とかでだべってた時の模様でしょう。「会議は踊る、されど進まず」という名言通り、会議よりは舞踏会やら貴婦人主催のサロンやらに皆うつつを抜かす有様。(続く)