貴族!(その3)

(続き)
さてこのウィーン会議に於いて、事実上の主役だったのがフランスのタレイランオーストリアメッテルニヒである。
本来敗戦国であるフランスは戦勝国側から当然過酷な要求があってしかるべしな状況だった訳だが、このタレイランという人物、歴史上まれに見る食わせ者であった。
名門貴族の家系に生まれたが、生来の障害(片足が不自由だった)のため聖職者の道を歩むも、フランス革命勃発時に於いては貴族階級でありながらも重要な役割を果たす。革命が過激の一途を辿った時期は身の安全のため一時アメリカに亡命していたが、時勢が沈静化すると帰国、ナポレオンの台頭に加担する。ナポレオン帝政時代は外相を務めるが、中公文庫「タレイラン評伝」を読んでいると、この時期、敵国であるロシアの皇帝アレクサンドル1世と個人的に誼みを通じ、かなり早い段階からナポレオンの前途は長くないと見越していたらしい。
時勢はその通りに進み、ナポレオン没落=ウィーン会議となる訳だが、ここでタレイランは「正統主義」という言葉を持ち出して一躍会議の主導権を握る。どういうことかと言うと要は「ヨーロッパは以前のように君主たちが治める国々であることが革命で乱れた世を収拾する方策である」ということ(だったと思う)で、この辺の考え方にアレクサンドル1世は非常に共感し(この人物は開明的なのか保守的なのか、時期によって考えが変わる不安定な思考の持ち主だった)ここに1815〜1848年までのヨーロッパのあり方が決定したのだった。フランスではナポレオン後いわゆる「王政復古」の時代となり、ルイ16世の弟プロヴァンス伯がルイ18世、その死後次弟アルトワ伯がシャルル10世として即位、政府は「ユルトラ」(英語でウルトラ。-超-保守派)が牛耳るに及んで、タレイランは革命時代の行動が問題視されて再び国外へ亡命。しかし1830年の3月革命で政界復帰し晩年はイギリス大使を務める。この時齢80近く、これほどまでに紆余曲折でしかも政治の中心にあり続けた人生は珍しいのではなかろうか。(続く)