貴族!(その4)

(続き)
ウィーン会議のもう一方の主役はオーストリアメッテルニヒである。コイツもフランスのタレイランと同様有力貴族の出で、父親は当時オーストリア領だったネーデルランド(オランダ)の総督をしており、メッテルニヒ自身は女帝マリア・テレジア時代の宰相カウニッツ伯の孫娘を娶り、オーストリア宮廷での立身は確定的で、若い頃から外交官として活躍し外相・宰相へと上り詰め、結局1848年の3月革命まで宰相として長い政治生命を過ごしたのは、タレイランと好一対である。一方で当時のヨーロッパ貴族社会において美男子との評判が高かった彼は、プレイボーイとしても名を馳せていた。この人の肖像画を見ると、美男子というにはシブ味が出ていてどちらかと言うとちょいワルオヤジ風な雰囲気である。様々に浮名を流していたが、有名なのは、ナポレオン全盛時代、彼は当時美人の誉れが高かったナポレオンの妹カロリーヌと交際していたらしい。オーストリアはフランスとどちらかと言うと敵対関係にあった時期が多い訳で、その辺を考慮に入れると、どうも高貴な方のお考えになることは私のような庶民にはよくわからん。
いずれにせよメッテルニヒという人は貴族主義の権化のような存在で、1815年〜1848年までのヨーロッパは「ウィーン体制」という革命思想を全否定した貴族の政治が支配しており、その中心人物がメッテルニヒであった。オーストリアは当然ながらドイツ語圏であるが、このオーストリア帝国の版図はドイツ語圏以外のハンガリーボヘミアなどのバルカン半島に及んでおり、この時代「ドイツ」という国は存在していなかった。かつてはドイツ語圏をほぼフォローする範囲で「神聖ローマ帝国」という、実体の無い概念だけの国が存在していたがナポレオンがこの地域を制覇した際に「神聖ローマ帝国」を廃止しドイツ地域は様々な王国、大公国、公国などの群小国家が乱立する事態となった訳だが、ウィーン体制下にわかに台頭してきたプロイセン王国オーストリア帝国ドイツ統一の覇権争いを始めるのである。(続く)