ドリフ大爆笑(その2)

フジテレビ「ドリフ大爆笑」は全盛期には月1回くらいのペースで放映されていたと記憶している。同時代の「火曜ワイドスペシャル」枠では小泉今日子の「あんみつ姫」が印象に残っている。(最近では井上真央バージョンの「あんみつ姫」になってますね。)土曜8時TBSの「8時だヨ!全員集合」が、80年代前期にフジテレビの「オレたちひょうきん族」に視聴率で逆転され、最終的に番組打ち切りにまで追い込まれるという事件は、我々世代では「明治維新」とか「本能寺の変」と同じくらい重大な、「その時歴史は動いた」的な事件なのだが、「オレたちひょうきん族」の、たけし・さんま・紳助等「MANZAIブーム」に端を発する当時の新しいお笑いの波に呑まれつつも、幼少期に「ドリフ世代」としてのDNAを摺りこまれた昭和46年生まれの自分としては、確かに土曜8時は「ひょうきん族」にシフトしていたものの、若干腑に落ちない自分の中での葛藤に答えを出すかのように火曜の「ドリフ大爆笑」も見続けていたのです。
ホントに「ドリフ大爆笑」は偉大な番組ですよ。あの「志村けんのバカ殿様」もこの番組のワンコーナーがその起源であるし、いかりや長介仲本工事による「ご存知!バカ兄弟」は、現在の倫理基準では絶対放送できないと思う。「バカ兄弟」のキャラ設定はもはや放送禁止用語でしか言い表せない(キ○ガ○)。そして最も人気のあったコーナーが「もしものコーナー」である。ドリフ世代にとって基礎教養科目であるこのコーナーについての説明はあえて省略するが、要するに最後のいかりや長介の決めゼリフが「ダメだこりゃ〜」という、あまりも有名なフレーズで、かつて浅草キッドが「2代目ツービート」を襲名したように、いかりや亡き後、誰かが「2代目いかりや長介」を襲名してでも残してもらいたい国宝級の名言だと思うのだがそれは言い過ぎだろうか?
80年代も末になってくるとさすがの「ドリフ大爆笑」も時代に取り残されて内容的にキツくなってくる。この頃ドリフファンの間でまことしやかに取沙汰されていたのが「いかりや・志村不仲説」である。この仮説を立証するに足る根拠もあり、それは、

1:いかりや・志村共演のコントが無くなった。

「もしものコーナー」でも2人のカラミが無くなり、(確か、もしものコーナー自体無くなっていたと思う)、「ドリフ大爆笑」のメインコーナーが「雷様」(いかりや、仲本、高木ブーの3人によるコント)になっていたと記憶している。

2:エンディングの映像が初期バージョンのまま何年も更新されていない。

エンディングの「♪ド・ド・ドリフのだいばくしょーぉ♪」というエンディング曲に乗って現在の淡麗グリーンのCMさながらのまだフサフサ長髪時代の志村けん&「なるほど・ザ・ワールド」の特別企画「チョーさん故郷に帰る」という、いかりや長介がその風貌から勝手にアフリカを彼の故郷として(決め付けられて)現地人と触れ合うという「世界ウルルン滞在記」のルーツといえる番組をやっていた頃(横道にそれ過ぎた。)の天然パーマ全盛期のいかりや長介が、背後のスクールメイツと並んでやる気のない振り付けで「ババンババンバンバン」とやってる映像が10数年変わらず流され続けているのが、「いかりやと志村は仲が悪くてもはや会う機会もないから、エンディングも新しく録り直せないのね。」という想像を呼んでいた。
大学生時代は今思えばしょーもない位くだらない事に全精力を注いでいたから、この「いかりや・志村不仲説」は自分的には卒論並みに真剣な課題でして、ついに文献(スタジオ・ヴォイスかクイック・ジャパン)に掲載されていた志村けんへの独占インタビューでこの仮説が事実であることを知り(当時はインターネットなんか無いから、この手の調べ物は本当に大変でした)、野口英世が黄熱病の原因を発見した時位に非常な達成感を感じていたもんでした。