駄菓子屋(その2)

地元の駄菓子屋、「田所(たどころ)」と「金魚屋(きんぎょや)」。対照的な2軒だった。まず「田所」は、築年数の浅い(窓枠や雨戸にアルミサッシを使うような、70年代後期当時では新しい感じの木造モルタル造り)2階建て家屋の、1F部分が店になっていて、店主のおばあちゃんは温厚で親切な人柄で、圧倒的人気を誇っていた店だった。店名の由来は店舗兼住居の、住居部分の玄関(現在の都市密集部における1戸建て住宅のレイアウトではベーシックとなっている、狭いカースペースの奥にある玄関)の表札に「田所」と書いてあったのでガキ達が勝手に命名したので、店舗自体に看板が有る訳ではない。しかし当時地元の駄菓子屋のスタイルとして、何の看板も掲げず、客である子供たちが勝手に店名を通称していたお店というのは結構あった。
問題は「金魚屋」のほうである。まず建物自体がヤバイ。「ALLWAYS三丁目の夕日」に出てきそうな昭和30年代テイストの駄菓子屋よりもっと粗末な造りで、要は終戦直後のバラック小屋みたいな感じなのである。トタン屋根で雨漏りもヒドかったような気がする。「田所」と比べて、というよりもはや大田区中の駄菓子屋の中でも最もコアな店だったのではなかろうか。売り場部分と住居部分を仕切るのは、カーテンというか単なる布切れ1枚で、店内に入るとイヤでも居住部分が視界に入ってしまい、多分その6畳程度の空間が店を営業している老夫婦の生活空間の全てで、常時付けっ放しの、「大岡越前の再放送」なんかをやってるテレビはなんと白黒で、冷蔵庫は1ドアの古―いヤツでしかも自分達と店舗との共用なので、¥30の「すもも漬け」を買おうとするとバアさんが冷蔵庫の中の「ごはんですよ」とか豆腐とかを掻き分けて商品を取り出すといった具合。売っている商品も「田所」と比べてコアな内容で、基本はデッカイ容器にぶち込まれたイカの串刺し系が多く、「個包装」という概念が希薄な店で、今の衛生感覚では絶対アウトです。ただし、自分も含めて当時のガキ共はこの場末感にハマッてよく来てたなあ。さすがに小学校1・2年程度では金魚屋はディープ過ぎるという自覚があって「金魚屋」に通いつめたのは小3以降だったと記憶している。だいたい駄菓子屋なのに店名が何故「金魚屋」なのか?それもコッチも看板が一切無いので「金魚屋」の店名の由来が全く分からない。確かに店の片隅で金魚を販売していたけど、我々は駄菓子専門で、金魚を買う客なんて全然いなかったし、大型ガラス水槽にエアポンプにと魚が快適に暮らせる今の状況と違ってドリフのコントに出てくるような金ダライに適当に金魚をぶち込んで、若干耄碌したジイさんがステテコ姿で金魚の世話をしていたが、ジイさんに話しかけると何故かいきなり怒鳴り始めたりして、・・・要するに「金魚コーナー」は敬遠して、駄菓子屋としてだけでこの店を認識していなかったので、「金魚屋」という店名にとても違和感を感じていたのです。
小学生当時謎のベールに包まれていた「金魚屋」の由来を知ったのは、中学に上がってからだろうか。誰から聞いたのか、コレが本当の話なのかもはや全く確証が無いのだが、聞いた当時は心底納得がいったのを憶えている。「金魚屋」は元々終戦直後の復員兵達に雑炊などを提供する店からスタートしたのだそうで、やがて戦後の混乱が終わると金魚の販売にシフトし、昭和40年代からは駄菓子屋も兼業するようになったというのが「金魚屋」ルーツの定説とされている。建物はリアルに終戦直後のバラック小屋まんまで、ホントかどうか分からないが、便所も無いのでバアさんが店の裏手に流れているドブ川に「直接している」のを見たヤツがいるらしい。そんな店に出入りしていた自分は、今振り返れば結構貴重な経験をしていたのかも知れない。現在は商店街の道路拡張計画もあり、とっくに(バブル期には)この建物は取り壊されて無くなっている。(続く)