(ユルく語る)日本の歴史・第3回

Episode3古墳時代
前回、タイムマシーンがあったら、叶えられるどんな欲望よりも「邪馬台国」の真相を知りたいと書いたが、引き続きタイムマシーンを使って古墳時代にも行ってみたい。
邪馬台国は、その後の「ヤマト王権」と連続した王権だったのか?卑弥呼没後、臺与(とよ)という女子を新女王とした、と「魏志倭人伝」にあったが、その後の邪馬台国がどうなったのか不明で、5世紀に「倭の五王」(履中、反正、允恭、安康、雄略天皇、あるいは応神、仁徳天皇が含まれる説あり)という記述が中国の史書に再び登場するまでの時期が「謎の4世紀」として未だによく判っていない。4世紀は中国では三国時代の後の一旦統一を果たした晋も、すぐに分裂しその後「五胡十六国時代」に突入して東アジア世界に対する求心力を失い、日本に関する記録も無くなってしまう。結果この時期が「謎の4世紀」となるのだが、この時期こそ「邪馬台国」と「倭の五王」の間にいわゆる「ヤマト王権」が成立した重大な時代なのです。その過程を知ることが出来ればもはやこの世に未練は無い。といっても過言ではないかもしれない(回りくどい言い方だ)
ユルく語ると言いながら真面目モードに入ってしまい反省。古墳時代といえばやっぱ「みずら」ですね。ハイキングウォーキングの「卑弥呼様―!」のネタでおなじみのあの髪型です。「みずら」で最近瞠目したのが、私的No1大河ドラマ平清盛」(2012年)に於いて、後白河法皇の少年時代、そして夭折した六条天皇の髪型が「みずら」だったという事。当時の天皇家では成人前の髪型がみずらだったという事です。古墳時代から7〜800年経過している平安末期の天皇家で連綿と続いている髪型であるというのが驚異的だった。
古墳時代」という呼称は自分にとっては馴染み薄い言い方で、自分の少年時代はこの時代を「大和時代」と「飛鳥時代」という2つの時代区分で学習したのだった。現在の解釈では「大和時代大和朝廷」という概念が疑問視されていて、そこまで確固たる王権だったのかどうか、さらに当時の朝鮮半島との関係性、当時「倭国」は朝鮮3国「百済」「新羅」「高句麗」にある程度の影響力を持っていて、朝鮮半島倭人が進出・定住しておりそれどころか朝鮮半島の政治にも深く関与していた可能性もあるらしい。例えば「葛城襲津彦」というヤマト王権での有力豪族がいるんだけど、彼は朝鮮半島に渡り百済の軍事顧問的な立場にいたらしい。時代は下るが中大兄皇子の治世時の「白村江の戦い」。これは日本古代史上最大のスケールの戦いで、唐・新羅連合軍VS日本・百済連合軍が数万人同士で海戦・陸戦での激戦を繰り広げ、結果日本・百済連合軍の敗北=百済の滅亡確定、亡命百済人が日本に大挙渡り、日本自身も国外の脅威からの防衛意識が高まり、「防人」や「水城」の設置等、現在の日本とダブるような状況が1400年前に起きていたのはまさに「歴史は繰り返す」という事です。うわあ古墳時代終わらないので次回に繰り越しです。