(ユルく語る)日本の歴史・第4回

Episode3古墳時代・続き
前回から3か月近く経過してしまった。古墳時代の続きを書くつもりだが、間を空けてしまうと何だか情熱が薄れて、さてどうするか。
「ユルく語る」と言いながらやっぱり硬い文体になってしまったが、結構マジモードになっているのでこのトーンで行きます。そもそも古墳時代が気になったきっかけは小学校時代に読んだ「漫画日本の歴史」だった。家から自転車で行ける程度の所に「亀甲山古墳」という、南関東では大きい部類に入る前方後円墳がある事を知って見に行ったことがあった。が、特に遺跡がある訳でも無く(横穴式の石室があるらしいが非公開)単に公園として散歩道などが整備されているだけで、何の感動も無かった。古墳時代の関東地方といえば、「上毛野君」(かみつけのきみ)という、今の群馬県辺りの豪族が最有力で、上野国(こうづけのくに)=群馬県下野国(しもつけのくに)=栃木県、が関東地方の中心地で、これに対抗する地域がこの「亀甲山古墳」のある辺りの多摩川下流域で、上毛野君との覇権闘争があったらしい、という意味では何となく自分の地元と古墳時代が繋がったなあとも思った。そういえば「亀甲山古墳」の近隣に世田谷区上野毛(かみのげ)という地名があって、群馬県から遠く離れた場所になんで上野毛なのか?というのも興味深い。
古墳時代といえば教科書的には仁徳天皇応神天皇といった巨大前方後円墳のイメージが大きいけど、個人的には雄略天皇のほうが関心がある。(続く)

(ユルく語る)日本の歴史・第3回

Episode3古墳時代
前回、タイムマシーンがあったら、叶えられるどんな欲望よりも「邪馬台国」の真相を知りたいと書いたが、引き続きタイムマシーンを使って古墳時代にも行ってみたい。
邪馬台国は、その後の「ヤマト王権」と連続した王権だったのか?卑弥呼没後、臺与(とよ)という女子を新女王とした、と「魏志倭人伝」にあったが、その後の邪馬台国がどうなったのか不明で、5世紀に「倭の五王」(履中、反正、允恭、安康、雄略天皇、あるいは応神、仁徳天皇が含まれる説あり)という記述が中国の史書に再び登場するまでの時期が「謎の4世紀」として未だによく判っていない。4世紀は中国では三国時代の後の一旦統一を果たした晋も、すぐに分裂しその後「五胡十六国時代」に突入して東アジア世界に対する求心力を失い、日本に関する記録も無くなってしまう。結果この時期が「謎の4世紀」となるのだが、この時期こそ「邪馬台国」と「倭の五王」の間にいわゆる「ヤマト王権」が成立した重大な時代なのです。その過程を知ることが出来ればもはやこの世に未練は無い。といっても過言ではないかもしれない(回りくどい言い方だ)
ユルく語ると言いながら真面目モードに入ってしまい反省。古墳時代といえばやっぱ「みずら」ですね。ハイキングウォーキングの「卑弥呼様―!」のネタでおなじみのあの髪型です。「みずら」で最近瞠目したのが、私的No1大河ドラマ平清盛」(2012年)に於いて、後白河法皇の少年時代、そして夭折した六条天皇の髪型が「みずら」だったという事。当時の天皇家では成人前の髪型がみずらだったという事です。古墳時代から7〜800年経過している平安末期の天皇家で連綿と続いている髪型であるというのが驚異的だった。
古墳時代」という呼称は自分にとっては馴染み薄い言い方で、自分の少年時代はこの時代を「大和時代」と「飛鳥時代」という2つの時代区分で学習したのだった。現在の解釈では「大和時代大和朝廷」という概念が疑問視されていて、そこまで確固たる王権だったのかどうか、さらに当時の朝鮮半島との関係性、当時「倭国」は朝鮮3国「百済」「新羅」「高句麗」にある程度の影響力を持っていて、朝鮮半島倭人が進出・定住しておりそれどころか朝鮮半島の政治にも深く関与していた可能性もあるらしい。例えば「葛城襲津彦」というヤマト王権での有力豪族がいるんだけど、彼は朝鮮半島に渡り百済の軍事顧問的な立場にいたらしい。時代は下るが中大兄皇子の治世時の「白村江の戦い」。これは日本古代史上最大のスケールの戦いで、唐・新羅連合軍VS日本・百済連合軍が数万人同士で海戦・陸戦での激戦を繰り広げ、結果日本・百済連合軍の敗北=百済の滅亡確定、亡命百済人が日本に大挙渡り、日本自身も国外の脅威からの防衛意識が高まり、「防人」や「水城」の設置等、現在の日本とダブるような状況が1400年前に起きていたのはまさに「歴史は繰り返す」という事です。うわあ古墳時代終わらないので次回に繰り越しです。

ユルく語る日本の歴史・第2回

Episode2 弥生時代
稲作の始まり→狩猟採集生活から農耕生活へ→人々が定住。ムラが出来る→強いムラが弱いムラを従えやがてクニが出来る。
「クニ」が群立していた時期の有名な出来事といえば「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)の金印。当時西暦1〜2世紀ごろ日本は約百か国から成っていたが、2世紀後半に卑弥呼邪馬台国が強大なクニとなり周辺のクニと争いを続ける。
ざっとこんな流れが弥生時代ですかね。基本的には教科書的な程度の興味しかないけれど、とは言え日本史最大の謎とされる邪馬台国にはとても気になる。
もしタイムマシーンがあったらどうするか?
1:【金持ち願望】これまでのスポーツ試合結果の情報を基に過去へタイムスリップして大儲けするという『バック・トゥ・ザ・フューチャー』パターン
2:【恋愛成就願望】しずかちゃんと結婚するために(そしてジャイ子との結婚を回避する為に)過去の自分を何とかして変えようとする『ドラえもんの、のび太』パターン
いやいや、そんな事より『邪馬台国は何処にあったのか?卑弥呼はどんな人物だったのか?』を当時にタイムスリップして真相を知りたい。
邪馬台国は九州にあったのか畿内に存在したのかという論争はずーっと決着を見ない。ただ近年、奈良県箸墓遺跡の発掘結果や、箸墓古墳の築造時期の考察(3世紀半ば)から、邪馬台国はこの辺りにあったのではないか?つまり『邪馬台国畿内説』が優勢になりつつあるらしい。
タイムスリップして知りたい歴史の事柄はいろいろある。例えば「坂本龍馬暗殺現場に行き、真犯人を知りたい」「本能寺の変の真相、なぜ明智光秀は突然謀反を起こしたのか?あるいは黒幕がいるのか?」等々あるが、自分的には邪馬台国の真実が知りたいかな。
さて、続く古墳時代も引き続き語る予定でいたが力尽きたので次回へ。

ユルく語る日本の歴史

最近日本史を語るポッドキャストを聴く事が多くて、但し内容はかなり素人的な番組なんだけれども、自分も歴史好きではあるが全くの素人なので同レベルということで楽しく聴いてはいる。
今回はポッドキャストにインスパイアされてユルく日本の歴史について書いていきたい。
基本的には古い時代から自分の好悪や関心のハッキリした独白スタイルで行きます。
Episode1 縄文時代
日本史は、1万年以上前の、大陸と地続きだった石器時代からスタートしているのだろうけど、これは知識も興味も無い。教科書で習った「野尻湖ナウマンゾウ」とか、打製石器磨製石器の違いとか。あと数年前にどっかの学者がやたら石器を発見してその発掘手腕が「ゴッドハンド」と呼ばれていたけれど実は全部ねつ造だったという事件がありましたねえ。
で、次の縄文時代。何と言っても、地元大田区が大いにフィーチャーされた『大森貝塚』ですか。モース博士ですね。しかし大森貝塚はその場所が非常に微妙なポジションで(大田区大森北と品川区南大井の境界線辺り)、大田区と品川区でどっちが大森貝塚の主権者かを争っているという、・・・まあどうでもよい話題ではありますが。
あと縄文時代で思い浮かぶのはそのルックスから宇宙人をモチーフとしたんじゃないかと言われている青森の『土偶』とか、基本中の基本『縄文式土器』とか。最近知ってちょっとショックだったのが、「縄文式土器」「弥生式土器」「高床式倉庫」等の歴史用語で、今は『式』を省いているんだよね。「縄文土器」とか「高床倉庫」と表記しているのを、娘の勉強を見ていて初めて知りました。
縄文人弥生人の違いについても興味があった。縄文人は『低身長、体毛濃い、顔の彫りが深い』、これは沖縄県民やアイヌとの関連性が指摘されているみたいです。一方弥生人は『高身長、体毛薄い、顔の彫りが浅い』という事で、大陸系、特に朝鮮半島との関連性が大きいのではと云われている。自分のルーツを考えると父方はかなり弥生的な特徴があり、母方は縄文的な特徴があって、ちょうど自分の見た目が縄文と弥生の中間的な感じとも思えるんだよね。
この流れで次回は「弥生時代古墳時代」を語りたいと思います。

河原町団地

気になっていた川崎の『河原町団地』、正月休みの合間を利用して行ってみた。
ママチャリを引きながら写真を撮りまくる40男というのはどうみてもアヤシイ感が滲み出る為、探訪は短時間に終わってしまい、その宏大な敷地の一部しか観察出来なかった。
河原町団地』で最も特徴的なのが、このタイプの棟。下層階がピラミッドのように段々状になっている。 

大規模団地なので住居棟が林立しており、下層階は別棟の日陰になりやすく、平等な日当たりを考慮したアイデアなのだろうか。
しかしこの構造では下の階に行くほど床面積が広くなっているのだろうか?と思い、建物の横に回るとこうなっていた。

逆Y字型の構造になっている為、せり出している下層階は多分床面積が同じ。


マンモス団地なので、商店街もある。(正月休みで閑散としているが)

建物は、『逆Y字棟』だけでなく、一般的な長方形タイプも混在している。滞在時間が短かったので全貌を解明出来ていないが10階以上ある大型棟が20棟近くはありそう。他に敷地内には保育園や廃校を改造したと思われるグラウンド・体育館付きのデイケアセンター(?)、公園、緑道、商店街などがあり、写真には収められなかったが、『逆Y字棟』の土台部分の空間はちょっとした広場のようになっていて、バトミントンに興じる家族がいたりして独特のコミュニティが出来ているのかなと思ったりした。

余談だが、今は亡き母方の祖母は練馬の石神井公園近くの団地に住んでいて、子供の頃盆と正月に毎年家族で訪れていた。この団地は多分相当古い部類なのだろうかエレベーターも無い5階建ての小ぶりな建物で、そして石神井川沿いにこの画一的で殺風景な建物が延々と立ち並ぶ風景が子供心に何故か物哀しい印象だったのを思い出した。

快晴

昨日、子供が塾帰りのバスにケータイを忘れてしまい、これが無事バスの営業所に届いていたというので取りに行った。午前中はラゾーナ川崎に家族で年末の買い物をする予定になっていた為、自分はバス営業所(東急バス池上営業所)から川崎までママチャリをかっ飛ばして家族と合流した。
途中第二京浜をひた走り、多摩川大橋を渡るところで、彼方に見える富士山の写真を思わず撮った。今日は非常に空気が澄んでいるらしく遠くの山々をクリアに見ることができた。

角度を少し西へ向け、武蔵小杉の高層マンション群を望む。小杉は近年再開発が著しい。しかし割と近くに存在する街でありながら武蔵小杉には殆ど行った事が無く、多摩川をはさんで対岸の川崎市は未知の場所が多い。

この後多摩川を越えてラゾーナ川崎に行く途中、『河原町団地』の傍を通り過ぎたのだが、昔から気になる存在であった『河原町団地』。規模といい、独特な形の建造物群といい周囲の街並みから異様に浮いた地区となっており、何というか現代的城郭都市のようで今度時間があればじっくりと偵察してみたいと思ったのだった。

今でも現役

しぶとく使い続けているiPodnano。これは2007年の第3世代モデルで、買ってから6年経つが今でも通勤の友として重宝している。
しかし通勤電車内で携帯端末を使用する人の割合としては、ほぼスマホ使いが8割方を占め、残り2割はタブレットとかゲーム関係で、今や携帯音楽プレーヤーをいじっているヤツはほぼ絶滅している状況。ましてやこんな古いiPodnanoはまず見掛けないのだが・・・。
iPodの役割は今ではiPhoneに統合されているので、「だったらiPhoneで音楽聴けよ」ってなるんだけど、選曲操作の場合やっぱクリックホイールに馴染んじゃってるし「道具としての愛着」があるという事です。
中学高校時代の昔はカセットテープ式のウォークマンで音楽を聴いていた訳だから、当時と比較すればこの容量4GBのiPodnanoでも充分過ぎるほどの機能が備わっている。
時計もストップウォッチもカレンダーも内蔵されているから懐中時計代わりになるし、ヒマ潰し用のちょっとしたゲームも入っている。結構使う機能としてはフォトビューワにもなるので、子供が小さい頃の写真を大量にインポートして通勤電車の中で心を癒したりしている。本来の音楽プレーヤーとしての機能もcoverflowやシャフル再生、各種簡易イコライザ等基本的なものはそろっているので不足はない。と言いつつも実はあまり音楽は聴かなくなっていて、専らコレでポッドキャストを聴く事が多いんですが。.


このサイズ感が丁度良い。

何度も落としたりラフに扱っているので裏面は細かいキズだらけ。でも全然壊れない。

今では当たり前だが当時coverflowは衝撃的に快適な選曲方法だと思った。

クリックホイールでメニューをたどっていく操作感は替え難いものがある。

写真もたくさん入ります。